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より良い人間関係の鍵 − ~何度まで赦すべきで しょうか。−

更新日:2020年5月17日








「何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言いま す。」(新約聖書)

21世紀を迎え、私たちはかつてなかったほどの物質的豊かさ、自由や便利さを多くの方々が享受できることとなりました。 半世紀前の人々からするならば、夢のような快適な生活ではないでしょうか。しかし、真の意味で、人々が 幸福になったとは言えないように思われます。 自殺者が毎年2万人前後、3組に1組が離婚、精神疾患が400万人弱、家庭の機能が弱体化しています。 家庭内での殺人、「誰でもよかった」と無差別殺人が行われ、「生命の尊厳」が喪失されているのではありま せんか。

人は共に生きる存在です

人と人とが共に生きる中に喜びを見出すのではないでしょうか。

「人が、一人でいるのは良くない。」と聖書の教えられているように、共に働き、遊び、交わる中に、生きる意味や喜びを見出すのです。孤独によって 生きることそのものの意義を失うこともあるでしょう。しかし、現実には、共に生きることに悩み、苦しんでいるのではありませんか。


共に生きる鍵は「ゆるし」にあります

共に支え合う関係の中で争いが起こり、傷つけ合い憎しみが生じるのです。夫婦、親子、兄弟姉妹、同労者、 友人、隣人等々....。小さな意見の違いが争いと憎しみに発展します。 「ゆるす」ことが出来れば、争いはなくなり、互いに励まし合う者として幸福を共有し合えるのですが....。 「ゆるす」ことができません。いや、「ゆるし」たくないのです。


「ゆるさない」ところに苦しみが

〝ゆるさない〝〝ゆるしたくない〟のにはそれなりの理由があります。 被害者は加害者に償いを賠償を要求することが出来ます。「ゆるす」ことはそれらの権利をすべて放棄する ことではありません。〝心の決意〟です。「神の裁き、法の裁きに委ねる。その決定を受け入れます。償いを手にすることは〝ゆるし〟を容易にするでしょう。しかし、〝ゆるさない〟決意が続くことも少なくあり ません。「ゆるさない」ことによって一番傷つくのは一体誰でしょうか。その人自身であり、加害者ではありません。自分自身の心が穏やかで、幸福感に満ちる者であるために「ゆるし」を必要とするのです。心の中に潜む、憎しみによって心身が弱ることも少なくありません。脳内の化学物質のアンバランスが病気の原因としてもその根本原因は「ゆるさない」心にあります。


「ゆるしの力」はキリストの十字架から

イエス・キリストの十字架は今日、世界中で愛の象徴として用いられています。イエス様が 十字架上で最初に祈られたことばは次のことでした。 「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」 人はなぜ「ゆるす」ことができないのでしょう。夫婦の争いから民族と民族との争いに至るまで....。

それは、自己中心の人生観で生きているからです。人類の始祖アダムから今日まで人間の生き方変わってい ません。幼い子供も自我の確立と共に自己中心性を発揮して、お菓子やおもちゃを奪い合うのです。 創造主なる神に対して自己中心となった人間は、人と人との関係でも自己中心に生き、争いは止むことがあ りません。自己中心とは神を信頼して委ねる生き方とは全く対照的生き方といえましょう。 神は人々に義の怒りを下される代わりに神の御子イエス・キリストを裁かれ、人々を赦そうとされているの です。 誰でも、神の赦しに与かることが出来ます。


「 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3章17―18節)


神の正義はあらゆる不正を正しく裁かれます。それは、あなたに対しても同様です。 人は他者をゆるす者となるためには、まず神の「ゆるし」にあずからなければなりません。創造主なる神を 中心とする人生観を持たなければ、真に人をゆるす者とはなれないのです。

「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を 遣わされました。ここに愛があるのです。」 (第一ヨハネ4章10節)


「ゆるし」はあなたの選択です。



著/ 西舞子バプテスト教会牧師

  表 博之







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